深夜の論客
9月も半ばを過ぎると日が落ちるのも少しづつ早くなり、日中は小春日和と言うにはやや暑いものの、我が家は標高は高くはないが周囲を山に囲まれているせいで夜は肌寒さを感じる。
これくらいの気候の夜に塗装をすると気泡が入りにくく曇りも出にくいのだ。
その日は雨の心配をしつつ昼間から夜間の塗装の為の準備をして一人ソワソワしていた。
湿度も程よい感じで、いざ参らんと満を持してセルロースラッカー缶の蓋を開けた。いや、正確には開けようとしたその刹那であった。
「ごめんください!こんにちは!」
我が家にはチャイムが無く、室内とのコンタクトは声に頼るしかないのだが、はてはて、22時半を過ぎたこの時間に誰だろうか?
田舎暮らしはプライベートを保ちにくいという点もあり、突然の来客には慣れている。
しかし、ここは限界過疎地であるからして22時を超えると深夜と言っても良い時合であって、そのこともまた重要な作業は深夜に行うことの本質なのである。
もしも地元の人間がこの時間に尋ねて来るようであれば、それは緊急事態の可能性が高く、いったい何が起こったのか?と慌てふためいてしまっても無理はない。
昼間元気だった隣家のお婆さんの容態が突然悪化しただとか、そういった方面の心配が先立ち、その時は「こんにちは」という不自然な挨拶に違和感を感じる事はできず、慌てて作業場を飛び出して玄関に急いだのだった。
玄関に立っていたのは見た事もないオジサンであった。
73に分けた髪、長細くてエラの張った顔に細い目、そして眼鏡。
Yシャツにスラックス。
50代半ばくらいだろうか?
サラリーマン風だが、はて誰だろう?
見覚えがまるでない。
選挙が近付くと後援会の人が訪ねてきたりするが近い選挙はないはず。
宗教の勧誘だろうか?
しかし、地元の人間は現時刻が深夜に相当する事を心得ているはずなので、咄嗟にコイツは地元の人間では無いと判断し、少しばかり得体の知れない身の危険さを感じた。
「あのー?ど(どちら様ですか?と言おうとした)」
「貴方の時(トキと聴こえた)は間違ってます!」
私の問いかけに思い切り被せる形で大声を出してきた。
うわずった声で、何か覚悟があるような印象だ。
そこで初めて気が付いたのだが、手に何か箱のようなモノを持っている。
パット見た感じでは羊羹くらいの大きさで厚さは10ミリくらいだろうか?羊羹ではなさそうだ。
得体の知れない身の危険は直感として当たっていたのか?ひょっとして箱の中身は武器ではないのか?
それにしても時が間違っているとはどういう事なんだろう?訳が分からない。
以前にも
「貴方の家の裏にある穴から地底人が出てきているので塞がせて欲しい」
だとか
「この家に泥棒に入るよう声が聴こえた。罪を犯す前に警察に通報してほしい」
などと頭のネジが外れた方達の訪問を受けた事があったのだが、こういった輩には何度遭遇しても耐性ができることはないらしい。
心底困惑して声が出せずにいた。
「貴方の小刀の研ぎ方は間違ってます」
え?コガタナの研ぎ方?
時ではなく、研ぎだったのか!
彼は最初に要件を伝えて安心したのか少しばかり落ち着いたようでここに来た経緯を淡々と語りだし、おおよそ以下のような事が判明した。
・当時私が書いていた製作ブログを徹底分析して周囲の風景情報等で同じ県にいる事を突き止めて家を探し当てた
・私の小刀の研ぎ方、人造砥石を多用するやり方に強い憤りを感じている
・自分は砥石や研ぎに精通している
・今日は本当の研ぎ方を教えに来た
という、なんとも身勝手で自己中心的で図々しくて、ストーカーチックというかなんというか。。。
当時私はブログに近所の村の祭り情報や裏山登山の様子、村の名前などを書いていた。
小刀やノミについては
・最終仕上げの一刀に使う訳ではないので人造砥石で素早く研いでいる
・吸水の必要がないシャプトンを多用している
・高価な天然砥石よりも安価で品質にバラツキがない人造砥石の方が今の自分(生業を持ちながら空いた時間に楽器を作るというスタイル)にはマッチしている
などの持論を展開していた。
もちろん正解ではないと思うし、人それぞれの考え方や境遇があるという断りを入れていた。
「貴方の持論は天然砥石を否定し愚弄するものだ」
「天然砥石こそ刃物の切れ味を最大限に引き出すアイテムなのです」
「貴方に使われている刃物は泣いています」
等々、初めて会う人間に言うには最大限に失礼な言葉の羅列があった。
その間私は一切口を開いていない。
そして
「私の研いだ小刀を持ってきました。是非とも見て欲しいのです」
一度は落ち着いたかに見えた彼は再び興奮しているように見えた。
予感は的中していた。
やはり手に持った箱の中身は武器になりうるモノだったのだ。
拒否したらヤバイ事になるのだろうか?
この日の塗装作業は諦め、仕方なく工房に彼を迎え入れた。
彼は自らを後藤と名乗った。
後藤は天然砥石の素晴らしさ、自らの砥石コレクション、手持ちの高価な刃物の自慢を延々と喋り続け、その間私は「はあ」「ほう」「へえ」しか言わず、それでもお構いなしで喋り続けていた。
小一時間も経過した頃
「私の研いだ小刀をお見せしましょう」
と箱を開けた。
箱には備前なんとか刀匠だとか書かれていて中身は普通の切り出し小刀だった。
いや、普通じゃないのだろうな高いのだろうなと思った。
刃は刃紋が浮き出ていて綺麗な小刀だった。
「綺麗な小刀ですね」
正直な感想を述べると
「そう!そう!それ!アナタわかっているじゃないですか!研ぎとは美しさを引き出す技なのですョ。○○先生の刃物と私の研ぎが渾然一体となった時、そこに出現するのは刃物を超えた刃物なのです」
「なんだそりゃ(笑)その素晴らしい刃物を使って何を切って何を作るんですか?」
「は?え?アナタ何を言ってるの?
刃物を超えた刃物ですよ?聞いてなかったのですか?何かを切るわけ無いでしょう?」
「え?鑑賞用という事ですか?」
「当然です。未使用です」
「未使用なのになぜ刃物を超えたとわかるんですか?モノを切った事もないのに研ぎが成功したと言える根拠はなんですか?」
「は?経験に決まっています。私ほど研ぎを極めると刃先を見ただけで切れ味がわかるのです」
「へ~そりゃ凄い!」
本当に分かるならたいしたもんだ!と思いつつ、半分以上うんざりしながらそう言って、なんとなく、今思うとなぜそんな事をしたのか分からないが、たまたま机の上にあった昼ごはんに蕎麦を食べる時に使った使用済みの割り箸を手に取って、同じくたまたま側にあった横手小刀を使ってスパリと一刀両断した。
「あ!」
後藤は声をあげた。
「そ、それは、その小刀はどなたか高名な鍛冶の方の作品ですか?」
「え?作品?いや、普通に近所の金物屋に売っている安価な小刀ですけど」
「今、スパリと、あまり力も入れずに切れたように見えましたけど?」
「研いだばかりですから。そうだ後藤さん、せっかくだからこれを使ってみて欠点を見つけて僕に正しい研ぎ方を教えてくださいよ」
「あ、え?ええっ?あ、はい。」
後藤は酷く慌てた感じで横手小刀を受け取り、割り箸よりも大きなスプルースの端材を渡すとそれも受け取り、ぎこちない手つきで削り始めた。
「…」
シュルシュルシュルシュル
「…」
シュルシュルシュルシュルシュル
「…」
後藤は何も喋らず暫くの間端材を削り続けた。
異様な光景になりつつあったので思い切って沈黙を破ってみた。
「どうでしょう?何が悪いのですか?」
「アナタは嘘をついている」
「え?嘘?」
「この小刀は有名鍛冶のモノです。天然砥石を使っていますよね。私には分かる。この切れ味は説明できないですから。仕上げ砥は中山を使っていますね?」
「いや、全然違いますよ。小刀はここから数キロ離れた所にある金物屋さんで普通に買えます。3000円ぐらいだったかな。研ぎは確かに、、、天然砥石は、、、中砥に天草を入れたっけな。シャプトンの1000と2000、仕上げはシャプトンの紫ですよ。5000番ね。」
「嘘だ!」
後藤は酷く慌てた様子で自分の持ってきた小刀を手に取り、先程のスプルースの端材を切り始めた。
が、私の横手小刀で切った時のようなシュルシュル音は出ず、黒板にチョークを直角に当てて押し進めた時のようなドゥドゥッドゥドゥッと躓くような、明らかに切れていない音が聞こえてきた。
「こ、これは、木が悪いのです。は、鋼に木がマッチしていないのです。」
「後藤さん。。。それってもしかして丸刃になっていませんか?」
最初に見た時は気が付かなかった。
いや、見ただけでは分からないほど微妙なのか。
研ぎ減りした砥石を使い続けたり、紙や産毛ばかり切って木材を切って確認しないでいると刃先はピンピンに見えてウブ毛等は剃れたりするけれど硬いモノは全く切れない刃物ができあがってしまう事があるのだ。
後藤は脳内で切れ味を想像していただけで実際に切っていなかったのでこのような事態に陥ったのだと思われた。
・・・続く・・・
※私的物語ですのでノンフィクションとは限りません。適当に読み流してください